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2007年12月25日

●橋本努『自由に生きるとはどういうことか』

はぁ〜、風邪で寝込んだ〜。とんでもな連休でした・・。

先週、こっちに少し書いたけれど、こちらでは、別のメモを。「自由論」というと、現代思想の最前線をフォローしたがる展開のものが多くて、思想の潮流そのものに、今やあまり関心を持てない者としては、とっつきにくくなるばかりだったのだけれど、これは、戦後日本社会のサブカルチャーに焦点をあてて、その時代時代での「自由」とは何だったのかを追う。パブリック・スクール型自由から、ロビンソン・クルーソー型へ、そして、60年代後半「あしたのジョー」の"真っ白な灰になる自由"、70-80年代の尾崎豊の"「仕組まれ自由」からの卒業"、90年代のエヴァンゲリオンの"ちっぽけな自分の肯定"、そして、21世紀は、創造階級と、日本の実態としての格差社会。背景には、オタクと新人類、オウム、ギークス……。その系譜は、とてもわかりやすい。わかりやすすぎて、単純かしすぎでは、と思うほどだ。一見唐突に見える最終章も、順に流れを追っていくと、きわめて自然に見える。

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「私たちは、現在、「創造としての自由」をめぐって、次のようなジレンマに立たされているだろう。いっぽうでは「自らの潜在能力を最高度に実現せよ」とう時代の要請(イデオロギー)があり、他方では「潜在能力を開花させれば生計が成り立つなどと勘違いするな」という時代の現実がある。……
 ウェブの世界で創造性を高めていくことは、「産業の要請」というよりも、「テクノロジ−の要請」であるといえるだろう。すでに一定の豊かさとテクノロジーを獲得した現代の日本社会においては、クリエイターたちの多くは低所得層に留まっている。もし私たちが、勝ち組の人ほど創造的だと考えるなら、それはまったく偏見であろう。……
 勝ち組ほど創造的な人間というわけではないのであって、創造力と所得の関係を切り離して考えることができなければ、私たちの社会は息苦しくなるばかりだ。…… だから現代の自由論は、自由を促進するための、社会変革の問題を論じて行かなければならない。」

ここで言及されている「創造階級」の元になっているリチャード・フロリダ「クリエティブ・クラスの台頭」では、「アメリカでは現在、全米雇用人口の約30%にあたる3800万人の人々が「創造階級」に属しており、その富の総額は、全体の約47%を占めるという」。また、
「創造階級」「ボボス」「文化創造者」、そして「ロハス」。こうした新しい用語がとらえようとしているのは、90年代以降に台頭してきた、新しい成功者たちのライフスタイルである。アメリカでは、新しい成功者たちは、もはやこれまでの成功者たちとは異なり、きらびやかな顕示的消費を志向していない。むしろ彼らは、エコロジーの実践や、ハイ・カルチャーの受容、あるいは、脳と身体を鍛えるためのトレーニングといった、独自の生活実践(ライフスタイル)を切り開こうとしている。」

確実にこの流れはある、と思うのだが、現実の日本の社会を振り返ってみると、クリエイティブの評価という点では暗澹とすることが多いのも事実。
近頃、若者の間では、以前に増して「空気を読む」ことが仲間ウチで重要視されているみたいだけれど、「創造」と「空気を読む」は、時に相反することでもあるはずだ。まぁ、これは別の話ですね・・。

投稿者 esaka : 2007年12月25日 22:01

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