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2007年01月26日
●小田中直樹『日本の個人主義』

「ぼくらが生活している世紀転換期の日本において、大方の人々がアクチュアルだと判断するような問題はあるだろうか。……ぼくは、個人の<自律>にかかわる諸問題こそ、今日の日本で最大のアクチュアリティをもつテーマのひとつである、と判断している。」
そこで、大塚久雄と戦後思想家の言説を追いながら、個人の自律という現象をどう考え、どう評価すればいいのか考察する。
また、小田中氏の世代で、社会科学に少しでも関心のあるものは、ほとんど何らかの影響をうけざるをえなかったであろう思想としての"ポスト近代主義"への小田中氏なりの決算ということだろう。これも「おわりに」にわかりやすくまとめてある。
「第二次世界大戦後しばらくのあいだ、さまざまな学問領域では、個人の自律の方策をめぐる施策がつみかさねられた。これに対して、ポスト近代主義は、自律した個人なんてものは存在しないと説いた。それまでの努力はすべて見当違いであり、したがって無駄である、というわけだから、その衝撃がおおきかったのもけだし当然だろう。ところが、世紀転換期にいたって、状況はさいどかわりはじめたようにみえる。脳科学・認知科学の急速に進歩し、自律した個人を自律した個人たらしめている主体性が存在することを明らかにしつつあるからだ。……
というわけで、ぼくらはすでにポスト近代主義のその先の、ポスト・ポスト近代主義とでもよぶべき時空間に、足をふみいれつつある。それでは、こんな思想状況にあって、人文社会科学の諸領域は、脳科学・認知科学の知見と、どうつきあえばよいのだろうか。ポスト近代主義以前の所説は、どう再評価されるべきだろうか。<いまさら……>という反応がかえってくることを予想しながら大塚の所説をとりあげたことの背景には、こういった疑問があった。……
ぼくらはつねに時代のなかで考えている。そして、時代のなかで生成している以上、いかなる考え方もやがてのりこえられてゆく。ただし、問題は<その先>への進み方にある。新しい所説にとびつき、古いものを古いからという理由でわすれさるのでは、前に進んだことにはならないだろう。古いものについては、その功罪を確定し、継受するべきは継受し、放棄すべきは放棄しなければならない。つまり、これはいわゆる<温故知新>ということになるのだろうか……しかし、われながらじつに平凡な結論になっていまった気もするが。」
引用が長くなってしまった。丁寧で無駄がない文章なので、一カ所引用しだすと、長くなってしまうのだ。逆に言えば、強烈なインパクトが残るような一文がある、というわけではない。内容面でも同じようなことが言えて、煽りがない分、一見の"刺激"に欠けるようにも感じるが、思索が丁寧にかっちりと積み重ねられていて、懐の深さを感じさせる。また、常に"同時代的"であろうとする視点が感じられて、風通しがいい。やっぱり、凄いな。
投稿者 esaka : 2007年01月26日 22:59
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