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2005年02月18日
●河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』
近年の日本は、犯罪が急増し、凶悪化が進んでいる・・というのが、一般的な常識になっていると思っていたわけだけれど、この認識が正しいのか、さまざまな統計資料を読み込んで、薄皮をはがすように‘現実’を露わにしていく。さらに、どうしてそうした認識が一般化するようになったのかその背景を探り、欧米社会との比較を交えて、今後の展開を考える。これは凄い。この素晴らしい論考も3500円の書籍では、なかなか多くの人が目にするわけにはいかないだろう。同じ内容でいいので、コンパクトにまとめて新書で出してほしい。その価値は十分ある。
結論部分から抜粋。
「本書において、日本全体の治安が悪化していないことは、明確に示せたと思う。犯罪数はせいぜい微増、警察の検挙能力もそれほど落ちてない。凶悪化は全くの誤り・・。ただし、無計画で歯止めのない、妙な事件は散見される。こういった犯罪状況であろう。しかし、このような状況にもかかわらず、いわゆる「体感治安」の悪化は激しい。それは、安全神話が崩壊したためである。日本に社会構造を考える上で、ひじょうに参考になる指摘がたくさんあるのだけれど、かってはあった‘境界’が、近年無くなった原因のひとつとして、「コンビニ」が挙げられていて、あらためて納得。80年代以降のライフスタイルの変化を考えた時(自分の生活を考えても)、コンビニの存在は大きい。昼と夜の境界を無くし、都市と地方の境界を無くした。あとは・・ケータイか。ネットというよりもケータイが一般化した98年頃以降、私たち(特に若者)のライフスタイルやコミュニケーションの感覚レベルに与えた影響は絶大だと思う。
犯罪不安の増大は、住宅街での財産犯が増加したことと、マスコミ報道の影響を考えがちである。これは間違いではないが、安全神話が崩壊するという、よりマクロな変動の中に原因を見るほうが事態を深く捉えることができる。安全神話とは、「ハレ」と「ケ」、つまり「非日常」と「日常」という境界によって、犯罪の非日常世界に閉じこめることを基本構造としてきた。・・この仕組みの要点は犯罪者の更正において、「赦して」日常共同体に帰すか、特別な隔離された環境で再適応させるか峻別しながらやってきたこと、一般住民に犯罪関係の情報を提供しないこと、さらには、繁華街と住宅街、夜と昼等の境界も活用して「安全地帯」を確保してきたことである。
安全神話の崩壊とは、これらの境界が弱まることによって起きた。・・変化の中心をなすのは、人々を拘束してきた伝統的共同体の衰退、それもとりわけ匿名社会化であった。
・・そこで当然、個人の確立こそが大切という意見が出てくる。
・・現実の欧米社会は、将来モデルにならないとすれば、日本の伝統に目を向けなければならない。日本の特徴は、長期的視野で、未来の平和共存を考えることであった。
・・治安の悪化が叫ばれる現在、それだけでなく、日本中をペシミズムが被っているように感じられる。これは、視点を変えると、何かペシミズムを醸し出したい者が、そのネタに治安問題を使っていると考えられないであろうか。・・治安に限らず、よく調査すれば悪くない状況にもかかわらず、ペシミズムが優勢であるというパラドックスの存在は、少なくとも指摘できるように思う。」
投稿者 esaka : 2005年02月18日 15:07
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